世界都市ランキングで6年連続4位の東京

東京都の歴史を振り返ると大きな出来ごとは5つあります。
  1.平将門の乱
  2.北条氏vs豊臣氏
  3.江戸幕府の始まり
  4.明治維新
  5.第二次世界大戦とその後の発展

平将門は平安の中期、関東地方で大きな乱を起こしました。東京エリアが表舞台に名を出すのはこの時からです。 その時まで日本国における片田舎であった東京は歴史の主役となることはありませんでした。 古代日本の首都は奈良・京都周辺であり、今に比べ交通手段もほとんどない世では首都から遠く離れた東京はただの田舎であり、 未開の地というイメージすらありました。実際この地を治めていた平氏が乱を起こしても当初は朝廷から軽視されていたほどです。 しかし平将門が新皇を名乗ってからは朝廷も乱の鎮圧に動きました。 その後乱は鎮圧され東京地方はまた歴史の表舞台からは遠ざかります。
再び歴史に名が出てきだすのは室町時代の終わりから安土桃山時代にかけて、俗に言う戦国時代です。 八王子城を治める北条氏、江戸城を造った太田氏らが出てくる時代です。この戦国の世でも大きな戦いだったのが 北条氏vs豊臣氏。豊臣氏が関東平定に出兵し、小田原征伐のため北条家との戦いが起きました。 この戦の結果が後の世にも大きく影響を与えています。
その後1603年、江戸幕府が徳川家康により開かれ有史以来初めて東京(当時は江戸)が日本の首都となりました。 江戸幕府が開かれてからは赤穂浪士による討ち入りなど歴史、政治の中心として色々なことが東京で起きます。 そして1867年、大政奉還が起き江戸時代の終わり、明治の幕開けとなります。文明開化とも言われるこの時は 東京の街並み、雰囲気はガラッと変わりました。 この後東京は1923年関東大震災、1945年第二次世界大戦終戦を乗り越え高度経済成長を迎え、2013年には 「世界の都市総合力ランキング」で6年連続4位と世界に名だたる都市になりました。 また東京の不動産価格も世界4位です。東京都は敷地があまり大きくなく平地も少ないことと、経済的な発展度合いから 世界でも有数の不動産価格の高い街になりました。
(東京都の賃貸ページを参考にした 情報です。)
日本国の首都を東京に移した徳川家康が、世界に名だたる都市になるまで東京が成長するとまでは考えていなかったでしょう。 日本の中では歴史の短い街ですが、それでも色々な思いが詰まった東京の歴史をご紹介していきます。

826年 西新井大師と空海

関東には三大厄除け大師があります。 神奈川県には川崎大師、千葉県には観福寺大師堂、 そして東京都には西新井大師があります。 ただ、これが複雑なのですが、上記三つとは別で関東の三大師と言われるものがあります。 関東厄除け大師とは空海である弘法大師を祀る真言宗の寺院をさしますが、 関東の三大師は別の寺院をさします。
西新井大師は東京都足立区にある西新井の真言宗の五智山遍照院総持寺をさします。 なぜ足立区に厄除け大師があるのかというと、 9世紀頃に空海が関東を巡っていた際に西新井に寄りました。 その時、その土地の村人たちが病にかかっていたそうです。 観音菩薩の霊託を聞き、本尊の十一面観音を造ると、 水が出なくなった枯れた井戸から清水が出て、その村人たちがそれを飲むと病が治ったそうです。 井戸はお堂の西側にあったので、この土地は西に新しい井戸ができた、 つまり西新井と命名されたそうです。ダジャレですね。
826年に真言宗の寺院として西新井大師は完成しました。江戸時代には本堂が建立されました。 しかし、1960年代に火災により焼失してしまいますが、本尊は無事でした。 現在の西新井大師は再建されたものですね。数年前にも改築をしてかなり綺麗になりました。
ただ、西新井大師といえばお団子屋さんなので、 来たのならお団子屋さんで舌鼓するのが満喫するポイントですね。

850頃 業平橋

現在は東武鉄道伊勢崎線のとうきょうスカイツリー駅となっていますが、スカイツリーが 出来る前の駅名は業平橋駅という名称でした。
この業平橋というのは平安時代の有名な歌人、在原業平(825年 - 880年)の名前からとって 付けられたものです。在原業平は高貴な血筋の生まれながら、天皇の臣下となって政治的には 不遇であったものの、歌の才能に優れ、多くの女性とのロマンスが知られています。実は全国 各地に業平橋は存在するのですが、これは在原業平が晩年、官位や官職をなげうって野に下り、 東国を旅したという伝説に由来しています。
さて、このスカイツリーの下の業平橋ですが、その由来は在原業平の墓である業平塚がそこに 存在したことにあるとされています。もちろん在原業平は京で没しているので東国に下ったと いうのは伝承に過ぎず、じっさいにそこにあったのは別の人物の墓であったということです。 それでもその塚が業平塚だというのはかなり古くからの伝承であったらしく、橋自体が 架けられた1662年には既に業平橋という名前がつけられていました。現在の業平橋自体は 1930年に架け直されたものですが、その駅名が消えるのは多くの人に惜しまれたため、いまでも とうきょうスカイツリー駅の駅名には旧業平橋駅と旧名も併記されています。


940 平将門の首塚

皇居の程近く、オフィス街の一角にひっそりと佇んでいるのが平将門(900頃~940)の首塚(将門塚)です。 平将門は平安時代に関東で朝廷に対して叛旗を翻し、みずから新皇と名乗って新政権を樹立しようとしました。 そもそも彼は桓武天皇の子孫であり、高貴な血筋でありながら、当時藤原氏が全盛を誇っていた京都の朝廷では 冷遇され、失意のうちに領地のある関東に戻りました。そこで、一族の領地勢力争いに巻き込まれる形で朝廷に 対決することとなり、現地の役所を陥落させて役人を関東から追放します。当初はただの一族同士の争いであると 考えていた朝廷も、将門が新皇を名乗ったことから態度を一変、オオムカデ退治の伝説などで有名な藤原秀郷 率いる討伐軍を派遣します。優位に戦いを進めていた将門でしたが、前線で指揮をとった際に一本の矢が 彼の額を射抜き、落命しました。
彼の首は京都に持ち帰られ、さらし首になりましたが、この首が突如空を飛び、関東まで帰ってきたという伝説が のちに生まれます。この首を祀ったのがこの平将門の首塚です。過去に何度もこの塚をこわして建物を建てようと いう計画が立てられましたが、そのたびに関係者が事故に遭うなど災いが降りかかり中止に追い込まれました。 よって、この首塚は保存会の人々の世話の元、いまもオフィス街の真ん中で静かに佇んでいます。


1590 小田原征伐と八王子城落城

1590年、関東の大大名北条氏直の惣無事令違反を大義名分に、豊臣秀吉が起こした戦です。惣無事令とは、 大名間の私闘を禁止する法律で、天皇の勅書はなかったようですが秀吉は自らが天皇の補佐役である太閤だから という名分で攻めています。 豊臣方の圧倒的な兵力の包囲を前に抗戦むなしく北条氏直は自らの切腹と引き換えに城内の人々の助命を申し出、 これが受け入れられています。北条氏直は当時無能な君主と言われていたそうですが、私は非常に暖かみのある 君主だと感じました。後の江戸城無血開城がスムーズに行われたのも、この小田原征伐の際の北条氏直の 潔い降伏があったからだとも思います。
当時の大名は富や権力を誇示し、相手に見せつけることが当たり前だったそうで、秀吉は小田原征伐の際、 茶人の千利休などを招き野外で大規模な茶会を開きました。中国の毛利攻めの際は、持ち運ぶことのできる金の茶室を 陣で組み立て茶会を開き、力の差を見せつけたそうです。
秀吉が武力行使よりも降伏させることが多かったのは、このように戦わずして相手の戦意を削ぐ達人だったのだと思います。 小田原征伐に参陣が遅れ、お咎めを受けた奥州の伊達政宗も巨大な金の三日月の兜が有名ですが、あの兜も 相手を威圧するための物だったそうです。伊達政宗は賢く、あの巨大な三日月は障害物などを避けるのに不向きで 木の枝などにぶつかった際に、すぐに外れる仕組みで作らせていたそうです。
このような戦国大名達の戦わずして勝つ為の知恵は、現代社会のビジネスシーンにおいても学ぶところがあるのではと感じます。

1596 高岩寺のとげぬき地蔵

東京都豊島区の巣鴨は、おばあちゃんの原宿として有名です。 巣鴨の地名は、単に大きな池があり鴨が飛来していたということに由来しています。 巣鴨は非常に広範囲にわたる地名を指し、以前は池袋周辺まで伸びていました。 有名な巣鴨プリズンも、実は池袋にあったものです。 しかし巣鴨といえば現在の山手線の巣鴨駅付近が最も有名で、その理由となるのが「高岩寺のとげぬき地蔵」です。 高岩寺は1596年に湯島に建立されたものですが、区画整備により1891年に巣鴨へ移転しました。
江戸時代に地蔵尊を信仰していた田村という人が、妻の病気を治す為に信仰していた地蔵尊祈願をしました。 すると夢のお告げに現れた僧より授かった地蔵菩薩を川に浮かべることにより、無事に妻の病気が回復したので、 この地蔵菩薩を高岩寺へ奉納したのです。 これにより、この本尊に祈願すると病が治るとの信仰が始まったのです。 病気が治ることを「とげを抜く」とも言ったことから、高岩寺は「とげぬき地蔵」の名前で親しまれることになりました。
今では全国各地から健康祈願や病気回復の祈願の為に、毎日多くのお年寄りが訪れる名所となっています。 毎月4の付く日には市も立ち、非常に賑わう場所でもあります。










1603 江戸の始まりと半蔵門・甲州街道

2020年、東京オリンピックが開催されることが決定し、世界都市ランキングにおいても、 ニューヨーク、ロンドン、パリに次ぐ4位に輝く都市でもあります。 関ヶ原の戦いが終わり、徳川家康公はそのまま江戸に武家政権の中枢とし1603年3月24日、 江戸幕府を開きます。
このころ、首都は京都にあったのですが、幕府があった江戸が実質的に中心地となりました。 時は過ぎて1868年、大政奉還と王政復古の大号令により幕府は崩壊しました。 江戸城開城により江戸は新政府の支配下になりました。 新政府は江戸府を設置しましたが東京に改称されると江戸府も東京府に改称されました。 そして明治天皇が皇居に入り東京は事実上の首都となりました。 東京には全国から新政府に仕える人々が集まり皇居周辺に住みました。これが山の手族の 起源にもなってます。築地には外国人居留地が設けられ、銀座には瓦礫街ができ文明開化が 進んでいきました。
それから第二次世界大戦、東京オリンピック、バブル経済と順番に順番に成長を遂げてきました。 文明開化で人々は心を躍らせて、新しい新時代に期待を寄せてた時代はみんな笑顔だったと 思います。誰もが良くしていこうとしていた時代です。 この頃のことをもう一度勉強し、これからの時代に活かすべきです。









1650 玉川兄弟と玉川上水

多摩川の水を取水し、武蔵野から四谷までにも及ぶ玉川上水は、 江戸時代の初めに玉川兄弟によって作られたものです。
1650年ごろ、江戸の町は人口が増加し、水の供給が 従来の神田上水からの給水では不足がちになりました。 そこで、幕府が多摩川を水源とする上水開削を命じました。 当時の将軍、徳川家綱に命を受けた町奉行は、のちの玉川兄弟となる庄右衛門と清右衛門に まずは調査を命じ、兄弟は様々な場所を調査し、取水地点を決めます。 その後、兄弟は開削工事も命じられ、1653年に着工します。
多摩川からの取水地である羽村から虎ノ門まで、開削工事を始めますが、 当時、高井戸あたりで幕府から受け取っていた工事費が尽きてしまいました。 兄弟は幕府に工事費の追加を申し入れましたが、幕府は、完成するまでは私財で工事を続けなさいと命令しました。 そこで、兄弟は屋敷を売却するなどして工事費を工面し、わずか1年半あまりで虎ノ門までの40キロ以上もの玉川上水を完成させたのです。 この功績が認められ、兄弟は幕府から玉川姓を名乗ることを許可され、 玉川上水を利用する武家などから水道利用料を得ることとなりました。
玉川上水は今でも灌漑用水や飲み水として今でも東京で有効活用されています。









1701 赤穂浪士討ち入り

東京の歴史は江戸幕府とともに始まるので、それほど長い歴史ではありませんが、 それでも数々の事件が起きています。その代表的なものが「赤穂浪士の討ち入り」です。 今でもその跡を辿ることができます。
松之大廊下跡は元禄14年(1701年)3月14日午前10時頃、赤穂藩主の浅野内匠頭が 江戸城内で2番目に長いこの廊下で吉良上野介を切りつけます。今では建物はありませんが、 皇居東御苑内に碑がありその跡を歩くことができます。 浅野内匠頭終焉の地、奥州一ノ関藩、田村右京太夫の上屋敷の庭先で即日に切腹します。 享年35歳。港区新橋4-28-31付近に石碑が建っています。
赤坂氷川神社は港区赤坂6-10-12、浅野内匠頭切腹後、正室である搖泉院は実家である 三次藩浅野家屋敷(現氷川神社あたり)に戻ります。討ち入り直前、大石内蔵助は搖泉院に 最後のあいさつに行きますが、吉良や上杉の間者に知られるのを恐れ、討ち入りのことを 伝えずに討ち入りのメンバーの名前を書いた連判状を置いて立ち去ります。 吉良上野介邸跡は一部が現存し元禄15年12月14日深夜、赤穂浪士47名が打ち入りが 行われた場所です。墨田区両国2-13松坂町公園に邸の一部が残っています。当時の吉良邸は 現在の吉良邸跡の約85倍もの広さがありました。
泉岳寺は港区高輪2-11-1、浅野家の菩提寺です。赤穂義士たちは泉岳寺で浅野内匠頭の墓前に 吉良の首を備え、仇討ちの報告をします。泉岳寺には浅野内匠頭、搖泉院、大石内蔵助、 堀部安兵衛などの墓があります。

1782 柴又帝釈天と天明の大飢饉

天明の大飢饉とは、西暦1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて巻き起こった近来まれに 見る大飢饉のことで近世では最大のものです。被害は東北地方の農村部が中心でしたが、江戸も 無事では済みませんでした。何しろ食べていけない農民たちが江戸や大坂へも押し寄せて、米屋への 打ち壊し騒動が起こるなど、治安も悪化してしまったのです。
このような飢饉とそれによる人心荒廃の中、或る一人の僧侶が立ち上がりました。彼こそは柴又帝釈天の 亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)その人でした。彼は天明3年頃、災難に遭って苦しんでいる 人々を救うのはこの時だと思い立ち、寺院の板本尊を自ら背負って江戸市中や下総の各所を訪ね歩きました。 日敬上人は諸人救済のために一粒符という霊験あらたかな妙符を感得して、これを病人などに施与しました。 すると大勢の病人か快復して、評判はたちまちにして処方へと広まりました。このことが切っ掛けとなり、 柴又帝釈天は有名となり、多くの信仰を集めたのでした。
今日では往年の人気シリーズ映画「男はつらいよ」や、夏目漱石の名作「彼岸過迄」などでも有名な柴 又帝釈天ですが、このような歴史的背景があったことは、残念ながらあまり知られてはいません。 なお、正式名称は経栄山 題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)と言います。








1923 関東大震災と築地魚市場

世界でも最大規模の取引金額を誇る卸売市場が築地市場です。新鮮な海鮮物でいつも活気のある築地の 魚市場ですが、この魚市場がなぜ築地に設けられたか、ご存知ですか。 そもそも江戸時代より、日本の流通の中心は日本橋にありました。日本橋の魚河岸は、徳川家康が 江戸前の海で漁業をすることを許したことにその端を発します。江戸前の新鮮な魚はまずは江戸城に 届けられましたが、当然残った魚は商いされることになります。このようにして発展してきた日本橋の 魚河岸ですが、大正12年(1923年)に起こった関東大震災によって消失してしまいました。
この魚河岸の機能がそっくり移転されたのが、築地の魚市場です。築地が選ばれたのは、築地付近には 当時の水上運送の要であった隅田川と、陸上運送の要であった汐留駅が至近距離にあったためです。 築地居留地と呼ばれた旧外国人居留地は当時は、当時の海軍省の所有地でありましたが、これを 借り受ける形で臨時の市設魚市場としてはじめられたのが、築地魚市場のはじまりです。現在の私たちから 見ると、この立地の有利さはあまり感じられませんが、当時この地区はまさに水運と陸運、そのどちらをも 兼ね備えたきわめて便利な地域であったことが分かります。
その後昭和10年(1933年)には現在の築地魚市場のある場所に、東京市中央卸売市場が正式に設置され、 現在に至っています。 築地の魚市場には場外と呼ばれる一般の観光客や買物客に対して開放された地域があり、ここには国内だけでなく 海外からの観光客も多く訪れる人気スポットです。

1944 風船爆弾と両国国技館

大相撲だけでなく、今ではさまざまなイベントも行われることで有名な両国国技館ですが、 実はその正式名称は「國技館」といい、両国国技館は単なる通称です。
さて時は太平洋戦争中、西暦1944年の両国国技館の様子がどのようであったか、ご存知ですか。 太平洋戦争勃発中の1944年、大日本帝国陸軍はアメリカ軍に打撃を与える計画を密かに 練っていました。これが「ふ号」というコードネームで進められていた風船爆弾作戦です。 帝国陸軍に接収された両国国技館内では、秘密裡にこの作戦用の風船爆弾が作られていたのです。 原材料は和紙とこんにゃく糊という純和製のこの風船爆弾、大きさは直径約10mに及んだといわれます。 ではなぜこの風船爆弾の工場として、両国国技館が接収されてしまったのでしょうか。それは 大きくふくらませた風船を天井から吊り上げるために、天井の高い開放的な空間が必要だったからです。
風船爆弾工場となってしまった国技館ですが、接収後はじめての大相撲の夏場所が行われたのは、 なんと後楽園球場でした。後楽園球場という大観衆を収容できる場所での夏場所、幸いお天気にも恵まれ、 訪れた観客の数は記録破りとなりました。ピークは夏場所七日目の日曜日にやってきました。 小石川後楽園球場のスタンドは、これまでの大相撲の本場所すべてを上回る、約八万人以上の相撲ファンで埋まったのでした。